残り半月です!
きっかけはJR東日本さんでやっている『駅からハイキング』というイベントでした。真鶴駅の横にある「真鶴観光案内所」さんで申し込み、アプリを起動させると、地図が表示されてテクテク歩いてゴールを目指すというイベントです。詳細についてはこちらの記事をお読みください。
そのスタート地点、「真鶴観光案内所」さんで頂ける小冊子がこちら「真鶴歴史探索地図」になります。真鶴町の歴史が古い写真や地図とで紹介されているのですが、これがなかなか趣深い。昭和に入ってからの激動の時代、戦争と高度経済成長の様子も今からではもう、想像もつかないくらいスペクタクルなのですが……。
こちらの『まなNAVI』の記事では、これまでに「芥川龍之介「トロッコ」、志賀直哉「真鶴」と読み進め、今回は3作目。夏目漱石の『真鶴行』を紐解きます。これまで通り「作品の紹介」から始まり、「現在の真鶴との繋がり」を検証し、最後は私の「拙い感想」まで……お付き合い頂けると幸いです。
夏目漱石『真鶴行』
前作2つは青空文庫やAmazonオーディブルなど……ネットで容易に読む(聞く)ことができますし、著作権の保護期間(死語70年)も切れていたりしました。夏目漱石となると、その2人の師匠のような存在ですから、遥か昔に著作権は切れているはずなのですが……ネットで検索してもなかなか見つかりません。
いくつか学術的なサイトを調べていくと、どうやら小説でも随筆でもないらしい? 「断片」と題された日記やメモのような短文に過ぎず、今これを読むためには索引まで含めて30巻もある「漱石全集」の第20巻目にあたらないといけない……という情報に行き着きました。
ありました! さすが地元!! ぶ厚いハードカバーをパカッと開いてみたら、いきなり『真鶴行』の該当ページ。過去に何度か図書館でコピーをとった方がいらっしゃったんでしょうね。ちょっとした歴史も感じつつ、わずか10ページほどで終わる掌編を読み進めてみました。
作品に描かれる真鶴
お隣の湯河原町に逗留していた漱石が、「良いところだ」と聞いて小旅行を企てる紀行文。冒頭では真鶴への目印として「無線電信の柱」が登場します。この短い文章中で、その後にも2〜3回登場するこの「無線電信の柱」は、ウチのすぐ裏に立っている「小田原テレビ中継局」のなんじゃないかな〜……と私は思いました。
最初は湯河原町からも見えるというその位置関係から、もっと半島の根元の方に立っていたのかな? ……と予想して読み進めたのですが、漱石が真鶴港まで降り立ち、それでもまだ右側の山に「先刻の無線電信の柱が見える」と描写されていたので、もっと岬の方になるんじゃないでしょうか? 確信は持てませんが……。
その一方で確信が持てるのは、すでにもう研究が済んでいる漱石が身を寄せた宿「平井屋」の所在地です。下の写真の場所になるので、真鶴町民の方が見ればすぐお分かりになりますね。建物はもちろん変わっていますが、かつては「真鶴銀座」とか「マチナカ」と呼ばれたという、町の中心地です。
ホウボウとアオリイカなら、今の真鶴でも地元物の魚介類としてお店に並びますが、驚くのは当時、ブリが大漁の時には7万匹も水揚げされたという説明です。そんなに!? ……と思いましたが、当時(大正5年)のお金で10万円にもなると言っているので、今で言うと1億円を超える価値。本当に7万匹獲れていたんでしょうね。
私の感想
最後はこれまで通り、毎度お粗末な私の感想になりますが、今回はこれまでと違って創作、物語文ではありません。単なる日記、覚え書き、紀行文のような「断片」に過ぎません。そのせいか、そこに込められた「意匠」を解説しているサイトは見当たりません。ただその文章力を賞賛するサイトが散見されるだけです。
狭い道にはみんな石が敷いてある。そ[の]道がみんな浜の方へ急な勾配が着いてゐる。さう[し]て不規則に幾筋もある。それからそれを横に貫いてゐるのもある。悉く石丈で畳んである。路丈は何だか伊太利(イタリア)辺の小さな漁村にでも来たやうな心持である。(家は無論比較しやうがないが)
真鶴の背戸道をお好きな方なら、誰でも嬉しくなる一節ではないでしょうか? 懐かしく趣のある背戸道を歩いていると、いつも私は「誰がこの道を作ったんだろう?」「いつの時代からこの石は積まれているのだろう」と悠久の時の流れに想いを馳せるのですが、これで「漱石の時代からかも!?」と思うようになりました。